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レースを支え続けた人たち ヨコハマタイヤとシビック
前回ご紹介した真崎の後を受け、2005年の第4戦から最終戦までを担当したのが小林勇一(左写真)。インテグラレースを担当したのは短い期間だったものの、かなり濃厚な経験だったことは次の言葉からも明らかだ。

「全日本レベルのスプリントレースで、タイヤコンペティションのレースは他になく、車両ハンデもないので、『速い』、『遅い』がシンプルで分かりやすく、リアルレースという感じでした。
そういうハンデ調整がなくても、上位陣は毎回接戦。スプリントなので、予選が重要なことから、コンマ1秒を競っていたため、開発もシビアで、よくタイヤもブローしましたね」

結果的には担当初年度となった2005年、「レース後半にかけて、ライバルメーカーのタイヤが良くなり、最終戦ではブローすることもある程度覚悟した、攻めの選択をしたのですが、レースに負けて年間チャンピオンを獲られてしまいました」というが、その苦労は別な形で報われることになる。

「この時に開発していたタイヤがあったので、マカオのギアレースにはうまくリンクさせることができ、海外メーカーと毎年いい勝負ができました」と小林。

このマカオで見せた高性能は各方面で大いに評価され、後にヨコハマタイヤがスプリントレースの世界最高峰であるWTCC(FIA世界ツーリングカー選手権)のオフィシャルタイヤとして採用される流れにもつながっていったと言えるだろう。

最後に小林にも、最も印象に残るドライバーは誰なのか聞いてみたところ、前述の大聖や真崎とは違う名前が挙がった。

「山野直也選手ですね。当時は若くて、元気の良さそうなドライバーが出てきたと思いました」。その見立ては正しく、今も第一線を走り、スーパー耐久やSUPER GTで活躍中であるのはみなさんご承知の通りである。

※右写真はマカオグランプリのギアレースで山野直也選手が駆るインテグラ。
2001年まで歴代シビックで行われてきたワンメイクレースは、'02年から'07年までインテグラにマシンをスイッチしていた。しかし'05年9月にFD型シビックがデビュー、1年半後の'07年3月に待望の「TYPE R」が追加された。そして同年9月にはワンメイクレースベース車も発売され、2008年からはFD2型シビックによるワンメイクが開催された。

タイヤはインテグラ時代の最終年度となった'07年同様にヨコハマタイヤのワンメイクとなったが、このFD2型シビック用タイヤの開発を取りまとめたのが八重樫剛(左写真)である。

「自分が担当になったのは'07年のシーズンが終わった後、翌年度からはFD2で行われると決まってからです。前任者がある程度の開発を進めたタイミングで、最終確認テストの少し前くらいにバトンを受け継ぎました」

FD型シビックは、日本でいう3ナンバーサイズの4ドアセダン。インテグラやEK9以前のシビックと比べても、ボディサイズや重量などのスペックや車のキャラクターに違いがあった。

「FD2型になって、車としては大きく・重くなりました。そしてタイヤについても18インチサイズへと変化しました。タイヤサイズの拡大については、決してこれはエンジニア的に楽な要素ではないのです。タイヤのハイトが低くなって、フレキシブルに動かせるゾーンが狭くなるので、意外と難しいものなのです。
一方、車としてはリアが安定して破綻しないのですが、当時はコーナーリングでノーズが“キュッ”と入っていく感じではなかった。そこで“曲げたい”という一心でホンダさんの開発も足を硬くする方向でしたから、ある程度の法則として車のアシが硬いのであればタイヤも硬い方に向かう、そんな感じでのスタートでした」

新しい車ゆえ、試行錯誤も続いた開発の初期段階。今だから笑い話として言えるエピソードもあるという。

「当初はタイヤが硬いので、ユーザーさんが自分で組めないということが問題になったり。また、これはタイヤだけの問題ではないでしょうが、普通にコースを走っているだけでフロントの小さい三角窓にヒビが入るという出来事もありました。
いろいろなことがあったのですが、ユーザーさんには参戦を重ねていくうちにタイヤの素性を理解していただきましたし、アシもどんどん柔らかい方向に進んでいきました。そしてタイヤと車のマッチングが急速に良くなっていき、『このタイヤで良かったね』と言われるようになるまで、そんなに時間はかかりませんでした」

こうしてFD2時代のバトルもしっかり支えたヨコハマタイヤだが、FD2はワンメイクレース以外でもヨコハマタイヤを装着して活躍を見せて行った。

「スーパー耐久やマレーシアで開催される耐久レースにも、ヨコハマタイヤを装着したFD2が参戦しましたね。もちろんスプリントのワンメイクとタイヤは異なるものですが、車とのマッチングについて先行して解っていたのでワンメイクでの経験をフィードバックして耐久でも結果を早々に出すことが出来ました。例えばスーパー耐久では、『FD2はそんなに速くないのでは?』という声も参戦前にはあったようですが、実際にデビューすると『速すぎるから性能調整が必要では?』という声に変わっていましたね」

こうして現時点で“最後のシビックワンメイク”も支えてきたヨコハマタイヤ。八重樫はシビックワンメイクレースで学んだことも多いと締めくくった。

「やはりシビックワンメイクはレベルが高いところにありましたね。個人的には当時は駆け出しのモータースポーツタイヤエンジニアだったので、タイヤの作り方というか調教の仕方というか(笑)、いろいろなことを勉強させてもらいましたね」
[UPDATE : 28.Mar.2014]
           
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