さて、シビックレースがワンメイクレースの礎だと冒頭に記したが、実際'70年代にはワンメイクレースを設ける発想がなく、エンジン排気量や改造範囲によったレース区分があるだけだった。
したがって、さまざまな車両によって争われることが多かったが、こと排気量1300ccを上限とするレースでは、B110型・日産サニーの独占状態。エンジンチューンの許されたTSレースでこそ、SB1型・ホンダシビックやKP47型・トヨタスターレットがライバルとなっていたものの、エンジンノーマルのプロダクションカーレース、もしくはサルーンカーレースではサニーに太刀打ちできなかったからだ。
しかし、このサニーは'73年で生産を終了。当時はFIA(国際自動車連盟)で公認された車両でなければレースができず、あの手この手を尽くして延長されたが、いよいよそれもいよいよ……ということに。同じA12型エンジンを積みながら、後継のB210型サニーは車体の大型化により、レースには適さず。
だが、その状況は自動車メーカーにとって、新車を売るチャンスだったこともあり、サニー以外の車両によるNPやNS(ニュープロダクション、ニューサルーンの略称)と呼ばれるレースに積極的に車両を投入するようになる。
そこに一石を投じたのがホンダであり、シビックによるワンメイクレースというスタイルだった。
サルーンカーの規則を踏襲し、エンジンはノーマルで、許される改造は最小限。それでいながら、当時としては破格のシリーズ賞金を設けたこと、鈴鹿サーキットを舞台に当時トップカテゴリーだったF2(フォーミュラ2)と併催したことで、大きな反響を集めた。
参加者はサニーによるサルーンカーレースの卒業生が大半を占めたものの、プロドライバーまで呼び込み、ハイレベルな戦いを繰り広げるようになる。
'81年から2年間は鈴鹿サーキットだけが舞台だったが、'83年からは東日本、西日本シリーズが、そして'84年には鈴鹿レディースカップまで設けられる。いかに高い人気を集めたか、理解してもらえることだろう。
また、'83年には各シリーズの上位ランカーだけを集めて争われる「ジャパンカップ」も開催。これが後のチャレンジカップに引き継がれるまで、シビック使いたちの日本一決定戦となっていく。