まずトップバッターとして登場するのは大聖康次郎。1999年から2年間に渡って、シビックワンメイクレースを担当した。
その頃はタイヤコンペティションが激しく、最も多くのライバルメーカーが参入していた。
「担当になった当初、我々は劣勢で、解決すべき課題が山積みでした。ラップタイムのみならず、レース中のタイム低下も大きく、摩耗ライフもフィニッシュまで保たないような状況でした。
担当になった際、まずタイヤを開発するための体制を整えるべく、開発に協力していただくチーム、ドライバーとの交渉から始めました。この時、注意したのは、当時のシビックレースはインターカップを頂点に、地方シリーズも組まれていたので、最終的にはどなたもが購入できる市販タイヤに反映させることを前提に、特定のドライバーのスペシャル的なタイヤにならないよう、複数のチーム、ドライバーに協力いただきました」と大聖は振り返る。
その言葉からも、特定のドライバーにスペシャルを供給して勝ちに行くのではなく、ユーザー全員に高性能なタイヤを供給することにあくまでもこだわっていたことがご理解いただけるだろう。
こうした目標を実現するためには、協力体制を整えた後も苦労の連続だったと大聖が続ける。
「テストのたびに進化が見られたとしても、ドライバーによってベストな結果が得られた仕様が異なるうちは、まだまだ十分でははないと思っていました。特にシビックレースはワンメイクなので、本当にいいものができれば仕様は収束するはずなので。したがって、開発の方向性を見出すために、単純に構造やコンパウンドなどのスペックにとらわれないよう、タイヤのバネ特性など、タイヤ単体の特性で判断することを心掛けました」
その甲斐あって、前述のとおり黒木選手(右写真)が連覇に成功する。
「鈴鹿チャレンジカップを挟んだ最後の3連戦はワン・ツーを飾ることができ、単独のチーム、ドライバーだけが速いということがなく、基本的な性能の底上げができたことを実感しました。最終的にベスト仕様もほぼ収束し、結果を伴った成果が得られたことが本当に嬉しかったです」と大聖は語っている。
そして当時、最も印象に残るドライバーは、黒木選手だという。
「黒木選手には開発を通じて、本当にいろいろなことを勉強させてもらいました。当時はスーパー耐久でもお世話になっており、耐久とスプリントでの使い方、そこから求められる性能や評価方法の考え方など、本当に多くのことを学びました。
また、我々設計者のみならず、他の開発ドライバーの方々に対しても、どのような使い方をすれば現在の開発タイヤの良い部分がより引き出せるかなど、アドバイスしていらっしゃいました。このような黒木選手の対応があったからこそ、ヨコハマユーザー全体の成績向上があったので、印象に残っているだけでなく、人として尊敬できる方です」と語った。