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[Vol.1] 2010年、自身4回目のマカオに挑戦 波乱の決勝を制して表彰台の中央に!
子供の頃に抱いた“憧れ”をかたちに ADVANとともに戦うことの“プライド”
     
1991年3月3日。富士スピードウェイで開催された「'91富士フレッシュマンレース 第2戦」のNA1600クラスは22台が10周の決勝レースを競い合った。
このレースにおいて予選13番手からスタートしたゼッケン9番をつけたAE86型カローラ・レビンは、10位でチェッカードフラッグを受けてフィニッシュ。このマシンを駆っていたのが織戸学選手、記念すべきJAF公認レースのデビュー戦であった。


「当時の富士フレッシュマンレースは、参加台数が600台とかいて大盛況でした。NA1600クラスはベテラン選手も多くて。
初めてのレースは、なんだか良く分からないうちに終わった、という感じですかね(笑)」



この富士フレッシュマンからレーシングドライバーとしての道を歩み始めた織戸選手。そもそもはドリフトでその名を馳せた織戸選手だが、レーシングドライバーとしての一歩を踏み出すまでを簡単に振り返ってもらった。

「1990年に、雑誌社が開催していたドリフトの全国大会で日本一になったのですが、その時に審査員だったのが板東正明さんでした。
大会で優勝したら100万円相当の中古車を賞品としてもらえたので、当時乗っていた車を売ってAE86をもらい、これでレーシングカーを作ってレースに参戦しようと思っていたんです。そこで、レースに参戦するための相談をしたくて板東さんに連絡を取って会社(板東商会)を訪ねました。
そうしたら、『レースをやりたいんだったら、ウチの会社に入れ』と言われて、入社することになったのが21歳になったばかりの頃ですね。
自分としてはメカニックをやりたかったのですが、『顔を広めるために営業をやりなさい』と言われて。問屋をやっていたので、全国の代理店などを営業でまわったのですが、この時に日本中に知り合いが出来たのは自分にとって大きな財産になっています。
ドリフトの日本一になったことで少しは知られていたから、営業先でも自分に興味を持ってもらえましたね」


デビュー以降、素晴らしい走りと戦績を重ねて着実にステップアップを果した織戸選手。デビュー2年目で富士フレッシュマンレース・NA1600クラスのシリーズチャンピオンを獲得、1996年にはSUPER GTの前身である全日本GT選手権のGT500クラスにスポット参戦。
1997年にはRS-Rレーシング with BANDOHから参戦したGT300クラスでシリーズチャンピオンに輝き、板東正明監督に恩返しを果たしたのである。
 
     
今や誰もが認める日本を代表するレーシングドライバーの一人である織戸選手。
子供の頃に憧れを抱いた“レーシングドライバー”という立場について、織戸選手は次のように語る。

「基本的にはいろいろな意味で保証は無いので、何事も自分次第なところがあります。でも、それが逆に楽しかったりもしますね。そう、楽しく、夢のような時間を過ごしてきていますよね。子供の頃に描いていた夢を実現しているわけですし」

憧れを形にした織戸選手。
単にレースに参戦しているからレーシングドライバーというのではなく、プロフェッショナルとしてのレーシングドライバーになろうと意識したのは、いつごろのことだったのだろうか。

「1997年にGT300クラスでチャンピオンを獲ってから、プロになろうと思いましたね。当時はまだ板東商会に勤める社員ドライバーだったので、どちらかというと“乗せてもらっている”という立場でした。
『今のままではプロにはなれない』と思い、これは人生でも大きなターニングポイントになりましたね。
結局は、それから3年後に会社を離れて、本当の意味でプロフェッショナルになりました」
 
     
織戸選手と言えばADVANとともに戦い、幾多の輝かしい栄冠を手中におさめてきたことでも広く知られている。織戸選手にADVANとの“出会い”についてお聞きしてみた。

「僕の中では小さい頃に見ていたレースで走っていたADVANカラーの印象が強く残っています。赤と黒のカラーリングは強いインパクトがあって、自然と目に入ってきましたね。
その後、車を持つようになった兄貴がADVAN HF-Dを買って、自分の車に履いて『見てみろ、格好いいだろう』って言われて、『あ、これがADVANなんだ』とレーシングカーとタイヤが結びついたんです。この頃には自然とADVANは格好いいという潜在意識がありましたね。
でも、ジムカーナをやっていた頃は、なんだか意味も解らずに他のタイヤメーカーのステッカーを車に貼ったりもしていました(笑)。レーシングスーツを初めて作ったときも、別のタイヤメーカーのワッペンを貼っていて。そうしたら板東(正明)さんに、『そのメーカーと何か関係があるのか』って言われて、『特にありません』って答えたら、『ならばADVANにしろ』って言われたこともありました」


子供だった織戸選手にも鮮烈な印象を与えたADVANカラー。Red in Blackのカラーリングは長年に渡り色あせることなく、国内外のモータースポーツシーンで輝きを見せ続けている。
そんなADVANカラーをまとうマシンのステアリングを織戸選手が初めて握ったのは、1993年のことだった。


「1993年に鈴鹿サーキットのレースで初めてADVANカラーのマシンに乗りました。AE92型のカローラレビンでN2-1600クラスに参戦したのですが、グループAの“お下がり”をN2仕様にした車でした」

同年5月2日、ゴールデンウィークの真っ只中に開催された「フレッシュマントロフィーレース IN SUZUKA」。34台が出走した10周のレースは生憎の雨模様となってしまったが、ここでゼッケン19番をつけた織戸選手は堂々の優勝を飾った。


「ADVANカラーに乗るというのはとても難しいことだと板東商会でも聞かされていたけれど、やっと許可が出て乗せてもらって。その時はやはりプライドのようなものを感じましたね。
関東から鈴鹿のN2に遠征して、ほとんどがAE86の中でAE92に乗って。今、富士スピードウェイのレストランに展示されている車が、まさしくこの時の車です」


この後も、スーパー耐久のアルテッツァやポルシェなどADVANカラーを駆って輝かしい勝利をおさめてきた織戸選手。ADVANドライバーとしての活躍ぶりは既に皆さんご存じの通りだが、ADVANドライバーというポジションについて織戸選手は語る。

「同じカテゴリーでADVANを履いているライバルには負けられないし、もちろん他のタイヤメーカーがいたら絶対に負けられない。タイヤメーカーとして参加しているというプライドはものすごく高いものがあって、ドライバーとしてはとてもやり甲斐があります。
あとは自分の勝手な勘違いかもしれないけれど、ADVANドライバーは露出的にも目立たなければならない、っていう思いがあります。レースを見るために足を運んでくれたお客さんを盛り上げることも、大切な仕事のひとつだと思っています」



これからのモータースポーツについては、「厳しい時代だけれど、若い選手たちにもっと育ってほしい」とも語った織戸選手。日本を、そしてADVANを代表するレーシングドライバーとして、活躍の歩みはこれからもますます加速を続けていくことだろう。

           

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