Your browser does not currently have the Flash Player version 8 that is required to view this site.
Please click here to download the latest Flash Player version.
HOME / MOTORSPORTS / ADVAN FAN / Vol.116 News Index
  ひとつ前にもどる  
2011年のSUPER GT・300クラスでチャンピオンを獲得した、兄・琢選手。そしてAPRC(FIAアジア・パシフィック・ラリー選手権)のジュニアカップで初代チャンピオンに輝いた、弟・彬選手。
レースとラリー、それぞれの国際的なカテゴリーで同じ年のシーズンに揃ってチャンピオンを獲得した番場兄弟、インタビューの後半では生い立ちとプライベートに迫ります!
番 場  琢 選手 =Taku Bamba=
番 場  彬 選手 =Akira Bamba=
1982年1月30日生まれ。
'97年にカートデビュー、2002年よりレースに転向して同年のアジアン・フォーミュラ2000では中国・珠海戦で優勝を飾る。その後、全日本F3選手権やスーパー耐久でキャリアを重ね、'06年からSUPER GTに参戦。
2009年から人気キャラクター・初音ミクとコラボレーションしたマシンを駆り、2011年は谷口信輝選手とのコンビでシーズン3勝を挙げてチャンピオンに輝いた。
1986年3月22日生まれ。
2006年のニュージーランド・ラリーにプライベートで参戦してラリーデビュー。
'08年には全日本ラリーにフル参戦を果たして経験を重ね、'10年からCUSCOの一員としてスイフトを駆ってAPRC(FIAアジア・パシフィック・ラリー選手権)にエントリー。'11年はプロトン・サトリアネオにマシンをスイッチ、保井宏隆選手とのコンビでジュニアカップを制した。
 
これまでにもADVANモータースポーツサイトでは、レースやラリーといったカテゴリーを問わず、多くのドライバーにお話しをお聞きしていた。そこで概ね共通しているポイントは、子どものころからクルマが大好きだった、ということである。
では、番場兄弟も同様に、クルマが大好きな子どもとして育ってきたのだろうか。しかし、兄の琢選手によると、ちょっと違ったというのである。

「僕たちの母は、僕のことを医者にしようとしていたんです。だから小学校三年生くらいから英才教育で、毎日のように勉強をさせられていました。小学校六年生の時には、高校三年生くらいまでに学校で教わる内容を全て終えている、というくらいに詰め込まれていたんです。
もう“医者になるべくして生まれてきた”というような感じでした。でも、僕自身は勉強は大嫌いだったんですけれどね(笑)」

いわゆる“クルマ好き”というわけではなく、どちらかというと勉強一本だったという琢選手。一方、4歳年下の弟・彬選手は、無邪気な子ども時代を過ごしていたと語る。

「お兄ちゃんが勉強ばかりしていたころ、僕はもう全開で遊んでいましたね」

二人とも出身は東京。無邪気に遊んでいた彬選手も、決して“クルマが大好き”というわけではなかったようだ。
そして中学生になった琢選手には、モータースポーツに初めて触れる機会が訪れる。

「中学一年の時に、母の体調が悪くなってしまったんです。二年になって母が亡くなってからは、すっかり勉強をしなくなりました。とにかく勉強するのが嫌で仕方なくて。
そして中学三年の時に幼なじみの友達のお兄さんがカートのレースにデビューするという話があり、『気晴らしに見においでよ』と誘われて、親父と一緒に見に行ったんです。周りからも、母が亡くなったことで僕が落ち込んでいたのが分かったんでしょうね。
それで行ってみたら、カートのスピード感やサウンド、匂いにすっかり魅了されてしまって。もともと、親父がスピード狂だったこともあって、そのDNAを受け継いでいたのかもしれませんね(笑)。
これが僕がモータースポーツを始めるキッカケでした。本当にそれまではレースをテレビで観るようなこともなくて、どちらかと言えばクルマよりもプロレスが好きでした。弟とプロレス技のかけ合いをやったりして」

ここで、彬選手がすかさず訂正を入れる。

「いや、正しくは“かけ合い”じゃないですよ。お兄ちゃんが一方的にかけてくるばかりでしたから(笑)」
 
カートの魅力に心を打たれたという琢選手。早速、自分でやってみたいとお父さんに相談を持ちかけることになる。

「親父に、『カートをやりたい!』と言ったら、高校受験が終わったら、という条件が出ました。それで高校に受かってから、一緒に始めることになったんです。
いざ始めようということになって、たまたま門を叩いたカートショップが“カートの神様”と呼ばれている李好彦さんとつながりのある店でした。それは本当に偶然だったのですが、さらにタイミングが良いことに、李さんが作ったというカートが店にあって、ヘルメットなどを含めたセットで10万円で売りますよ、と言われたんです。
それを買って、あとはもう楽しくて仕方なくて。親父と一緒にカート場に3年くらいは通いましたね」

高校一年でカートを始めた琢選手に対して、彬選手は小学六年生。彬選手は当時のことをこう語る。

「僕はお兄ちゃんがカートを始めたころは、全開でクルマ酔いする子どもだったころでした。いや、クルマ酔いは今でもするんですが……(笑)。
もちろんラリー中なんかは集中しているので運転していれば大丈夫……、とも言い切れない部分もあって……(苦笑)」

クルマ酔いするラリーのチャンピオン、というのも信じられない話ではあるが、琢選手が子どものころのエピソードをひとつ教えてくれた。

「僕はカートを始めて地方戦から全日本戦へとステップアップしていったのですが、弟にもやらせてみたいと思ったんです。でも、あまり本人は興味が無さそうにしている。
だから半ば強制的にカート場に連れて行って、昼休みに乗せてみたらクルマ酔いして吐いちゃったんですよ」

このことは、彬選手もしっかり覚えていた。

「中学一年のころだったかな。みんなが休憩している昼休みに走らせてもらったのですが、コース上には自分一人だけ。
最初の1〜2周は始めてだったこともあって純粋に面白かったのですが、走りながらだんだんと『レースって、抜きつ抜かれつをやって競うものでしょう』って思い始めて、面白くなくなってきたんです。
そんなことを考えていたら気持ちが悪くなっちゃって、ピットロードに戻って止まると同時に、お兄ちゃんのヘルメットの中で……」

この彬選手のカート初体験、兄の立場を使った“強権発動”によるものだったと琢選手は振り返る。

「僕も兄貴だから強く出て、1〜2周だけ走ってピットインしようとする彬に対して、ダメ出しして走り続けさせたんです。
それに、初めてカートに乗るという割りには本当に速かったんですよ。周りのカート仲間たちもビックリして、『こいつには才能があるぞ』なんて言うから、兄としても鼻高々な気分で。それが、疲れたと言って早々にピットインするなんていうものだから、兄として『そんな甘えは許さん』となって(笑)」

クルマ酔いという、まさかのモータースポーツ初体験となった彬選手。しかし、これが後の運命を決定付けることになったと、今思えばターニングポイントとして振り返ることが出来るかもしれないと彬選手は語る。

「カートでクルマ酔いして吐いたその時に、『僕はアスファルトはダメだ! カートはやらない!!』って宣言したんです」
 
東京で生まれ育った番場兄弟、琢選手が高校を卒業してからひとつの転機が訪れる。著名なバイオリン職人であるお父さんが東京を離れ、もともとアトリエのあった長野に引っ越すという話になったのだ。
このときから兄弟は別々に暮らすようになるが、レーサーへの道を歩み始めた琢選手の話をまずはお聞きしよう。

「親父から長野に引っ越すという話が出て、僕は既にレースを始めていたこともあって東京に残り、高校生になった弟は長野の高校に編入して親父と一緒に暮らすことになりました。
僕は高校3年のときには、レーシングドライバーとして生きていくことを決めていました。だから高校時代はカートばかりやっていて、学校にはきちんと休まず行っていましたがほとんど勉強をしていなかったのです。ただ、数学だけは三年間で一度も学年一位を逃したことが無くて、一番良かったときで数学の偏差値は94とかでした。

だから先生には、『もったいない、しっかり勉強すれば良い大学に行ける』と言われたのですが、僕は全く興味が無くて。親父も面白くて、『何か自分で本当にやりたいものが無いかを見つけろ』と前々から言われていたので、レースをやりたいと言ったら、『その道を突き進め』って言ってくれました」

高校を卒業して、本格的にプロのレーシングドライバーを目指して歩み始めた琢選手。しかし、プロのレーシングドライバーとして生きていくには、学校があるわけでもないし、その道のりは自分で切り拓いていかなければならない厳しいものだ。

「プロのレーサーになるには、とにかく結果を出していくしかないと思いました。それで、カートで全日本戦にステップアップして好成績をおさめれば、どこかからオファーが来るだろう、なんていう夢を見ていたりもして。
ところが地方戦では優勝もあったのですが、全日本戦では全く結果が出なかった。東京に独りで残ったものの半分レーサーへの道は諦めていたこともあったんです。そのうちにお金も厳しくなってきて、19歳になってレースを諦めようと思ってお世話になっていたカートショップに挨拶に言ったんです。
高校を卒業してからは年に2〜3回顔を出すくらいだったのですが、挨拶に行ったら偶然にも李さんご本人が遊びに来ていたんです。それでいろいろと話をしていたら李さんから、『諦めるのはもったいない』と言われて、トヨタのスカラシップについて教えていただきました。
詳しく聞いたらオーディションの参加費は自分のアルバイト代でなんとかなる金額だったし、最後の記念になるかと思って受けることにしたんです」
 
半ばレーシングドライバーへの道を諦めかけていたという琢選手。偶然に出会った李さんの薦めもあって、トヨタのスカラシップに参加することとなった。

「実際に受けたときの僕の評価って、『とても素直に物事を吸収する』というものだったそうです。でも、どうしてそんなに素直になれたのかというと、僕自身が最初からスカラシップに合格するとは思っていなかったからなんです。なにしろ、最後の記念にという思いと、2日間のオーディションでドライビングスキルを上げたいという思いで参加していたのですから。
それで、最初は遅かったんですけれど、最後の方には上位に食い込むタイムも出せるようになって、最終選考に呼ばれました。一緒に呼ばれた顔ぶれは小林可夢緯選手や中嶋一貴選手などでしたね。
それで、最終選考に残ったのなら気合いを入れていこうという思いで臨んだら、奇跡的にスカラシップに合格したんです。ここで人生が180度変わりましたね」

挫折しかけたレーシングドライバーへの道を、再び自ら切り拓いた琢選手。これで琢選手はFTRS(フォーミュラ・トヨタ・レーシング・スクール)の一員となり、関谷正徳氏の下でフォーミュラ・トヨタに参戦。優勝も飾って翌年にはF3へとステップアップを果たした。

一方、お父さんと一緒に長野で暮らしていた彬選手にも、転機が訪れようとしていた。

「お兄ちゃんがレーサーへの第一歩を踏み出していたころ、僕は長野で高校生でした。
その頃やっていたのは自転車。中学生のころ、同級生にBMXをやっている友達がいたのですが、僕は他人に影響されやすいのか、『僕もBMXをやる!』と始めたんです。ただ、ペダルで思いっきり脛を切って、乗らなくなっていましたが(笑)。
それが長野に引っ越したら、近所にスキー場があってそこにはダウンヒルの自転車コースも併設されていたんです。また友達に誘われるかたちでマウンテンバイクで走ってみたら、これがとっても面白かった。ただ、本格的なコースに対して、僕が乗っていたマウンテンバイクでは全く物足りなかったんです。
本気でマウンテンバイクをやろうと思ったらお金もかかるし、どうしようかと悩んでいるうちに興味も薄れつつあったのですが、そんな時にお兄ちゃんからトミ・マキネン選手がウィンターコースを走っている模様をおさめたビデオが送られてきました。
それを見て、『なんだ、これは!』と衝撃が走りましたね(笑)。
雪道で、なんて楽しいことをやっているんだろうと。僕も雪道は好きで、4輪バギーで家の敷地内を走り回ったりもしていたのですが、その延長線上にこれがあるのかもしれないと思いました。それこそ“WRC”が何の略なのかも知らないのに、“WRCというラリー”をやりたくなって、いろいろなビデオを見たりしましたね」
 
一本のビデオで見た世界トップラリーストの走りが、高校生だった“少年・番場彬”に大いに刺激を与えた。このビデオから彬選手の人生は大きくラリードライバーへの道を目指すことになる。

「たまたま僕が通っていた高校には自動車科があって、卒業生の多くが高山短大に行っていると先生に教えてもらいました。それで、ラリーが身近になるということで高山短大に進学して、運転免許も取ってラリーでも活躍していた日産パルサーのGTI-Rに乗っていました。でも、僕はもともとはクルマを大切にしたい方だったので、自分のクルマでスポーツ走行はしていなかったんです。ただ、冬になってどうしても自分の衝動を抑えられなくなってスノー路面で走ったら、友達よりも上手く走れて、『これは楽しい〜!!』となりました(笑)」

遂にモータースポーツの世界に開眼した彬選手。しかし短大生の身でラリーに参戦するには、金銭的負担が余りにも大きいという現実にも直面する。そこで大胆にも短大を中退して、ダートトライアルの世界に身を投じることを決意した。

「周りには反対されましたが、ラリーが出来ないなら学校に通っても仕方ないかと思って中退しました。
それからはスポーツランド信州に走りに行ったりしていたのですが、たまたまそこで知り合った方に、『ラリーをやりたいんです』と相談したら、いろいろとアドバイスをいただけて、モータースポーツショップというものの存在を教えてもらいました。それまでの僕は全くそういうことに疎くて、『クルマの部品なら、カー用品の量販店で買っていますが?』という程度の知識。
ご紹介いただいたアトムさんというお店に行って、まずはダートトライアルを練習から始めて、ライセンス不要のシリーズでチャンピオンを獲ったりもしました。そうこうしているうちに、『本格的なラリーに出たい!』という話になって、ダートトライアルをかなり走り込んでもいたので、どうせなら“ダメもと”で海外のラリーに行ってみようということになって、WRCのニュージーランドにエントリー申請をしたんです」

いきなり海外ラリーでのデビューというのも無謀な感じもしなくはないが、この思い切りの良さもプロドライバーには必要とされる要素のひとつなのかもしれない。
“ダメもと”で送ったエントリーは受理されて申請した本人が驚く結果となるのだが、いずれにしても“ラリードライバー・番場彬”がニュージーランドを舞台にして生まれることとなった。

「エントリーが受理されたものの、お金が無いのでお父さんに支援をお願いしました。お父さんからは、『これが最後だぞ』と言われて助けてもらって。
それでニュージーランドに出場したのですが、初めてのラリーですからペースノートすらロクに作れないような状態でした。外国人のコ・ドライバーと組んだのですが、僕の英語は最低限の会話がなんとか出来るという程度で。とにかく、数字が大きければコーナーは緩い、小さければきつい、あとは右と左、という感じのペースノートで、平均速度が高くて最長44kmものロングステージもあるラリーに臨んだわけです。
でも、そこで2つのラッキーがありました。
得意なハイスピードのステージで前走車に追い付いて、巻き上げられるダストに視界を奪われてコースオフしたのですが、マッチョなコ・ドライバーが車を持ち上げてなんとか脱出できたのが、一つ目のラッキーなこと。
さらに最終日にも同じようなミスをしてしまって、砂利に埋まってどうにもならなくなってしまったんです。諦めかけていたら後続車で若い女の子の選手が来たので、牽引で引っ張りだしてもらったんですよ、ラリーの本番中に。そんなこと普通はあり得ないことですが、何しろ初めてで規則もよく理解していなかった部分もあって(苦笑)。これが二つ目のラッキー。
こうしてなんとか完走できたら、モータースポーツ雑誌やインターネットに掲載されて、嬉しかったですね」
紆余曲折もあったが最後はしっかり自分の力で道を切り拓いて、レーシングドライバー、そしてラリードライバーとしての歩みをスタートさせた番場兄弟。
次回のインタビューでは、兄と弟それぞれの思いなど、よりパーソナルな素顔に迫ります!


【>> 初めての兄弟インタビュー、最終回では2012年シーズンに懸ける思いを語っていただきます!】
[UPDATE : 23.Jan.2012]
             
ひとつ前にもどる