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YOKOHAMAが贈るアルミホイールの世界 YOKOHAMAが贈るアルミホイールの世界 YOKOHAMAが贈るアルミホイールの世界 YOKOHAMAが贈るアルミホイールの世界
YOKOHAMAが贈るアルミホイールの世界 YOKOHAMAが贈るアルミホイールの世界
ドライバーとして培った"経験と知識"
高い機能美が人気のYOKOHAMAアルミホイール。
それらをデザインから仕上げまでトータルプロデュースしている担当者は、自らがレーシングドライバーとして多くのモータースポーツに参戦してきた経験の持ち主。
しかも全日本F3選手権や当時の国内最高峰ツーリングカーレースだったグループAなどに参戦、優勝経験も有する本格的なキャリアを歩んできた。
こうして培われた"経験と知識"は現在の商品群にも活かされている。
萩原 修 =OSAMU Hagiwara=
横浜ゴムタイヤ第一製品企画部
ホイール企画/デザインCMP
ホイールラインナップはこちら
は大学生の頃は今で言う「走り屋」のような感じで、とにかくクルマを運転するのが好きで、自然とモータースポーツもにも興味を持ち、富士スピードウェイにグランチャンピオンシリーズ(グラチャン)などを観戦しに行っていました。
そんな中でそのグラチャンや国内最高峰フォーミュラだった"F2"を走っているADVANカラーのマシンが特に気になる存在でした。タイヤメーカーとしてフルカラーリングでレーシングカーを走らせていたのは横浜ゴムのADVANだけだったので、見ていて「チャレンジ精神のある会社なんだな」と勝手に思い込んでいました(笑)。
そんなことも影響して、「就職するなら横浜ゴム」と思っていたので卒業とともに入社試験を受けました。
会人になって自分でお金を稼ぐようになったらレースをやりたい、という思いがずっとあったので、入社した翌年に富士フレッシュマンレースにRX-7でデビューしました。
自分で言うのもなんですが、ルーキーイヤーではありましたが3戦目には表彰台にあがり、周囲からも「萩原ってやつは速い」とマークされるようになりました。
2年目のシーズンは同じくRX-7でポールポジションや優勝も獲得できて、満足な成績を修められたのでRX-7は卒業することにしました。
参戦3年目と4年目のシーズンはRSというカテゴリーに移って、ここでも7戦連続ポールポジション獲得や5連勝といった戦績を修めました。
そして4年目のシーズンで全日本F3選手権にステップアップするチャンスに巡り合えたのです。
しかし、さすがにそれまでは奥さんと二人で手弁当の参戦を続けていましたが、全日本F3ともなるとそう簡単にはいきません。
そこで、当時のADVANワークスマシンを走らせていたチームにメンテナンスをお願いして参戦体制を強化しました。
 
3参戦は丸二年間でしたが、最初の年はマシンが古かったこともあって苦戦。
しかし2年目には念願の新車を投入して、戦闘力が大幅に向上しました。
ところが自信があったのに最高位は8位。もっとも1990年頃のF3はバブル景気の時期だったこともあって参戦台数が60台以上の超激戦区だったのですが。
しかし意気込んで参戦をはじめたのですが、どうにもメンタル的な部分も含めて自分としていま一つ歯車が上手く噛み合っていなかったように感じます。
そんな中で1990年秋、「インターF3リーグ」というビッグイベントに参戦することになったのです。
ンターF3リーグはマカオグランプリの翌週に富士スピードウェイで開催され、マカオを戦った世界中のF3使いたちが日本のF3ドライバーたちと戦い、「真のF3世界一」を決めると言われた一戦でした。
私は40台×2組で行われた予選では16番手を獲得、3台前にはミカ・サロ選手、その2台前はミカ・ハッキネン選手、そしてポールにはミハエル・シューマッハ選手という錚々たる顔ぶれでした。
決勝では残念ながらスタート直後の1コーナーでのアクシデントでレースを終えることになってしまったのですが、このレースでの経験は今でも忘れられません。
当時の富士では長いストレートでの抵抗を減らすため日本のF3勢はスペシャル仕様のリアウィングを装着していました。対する遠征組はマカオ仕様の巨大なリアウィングがついていました。
練習走行の序盤はトップスピードに勝る日本勢がタイミングモニターの上位に名を連ねました。
しかし10分もするとマカオ勢が続々とピットイン、なんとリアウィングを取り外して再びコースインしていったのです。常識的に考えると確かにストレートでのドラッグは低減させるのでしょうが、100Rなどの高速コーナーはとても全開で行けるはずがありません。
タイム的にもそれほど伸びる訳が無いとタカを括っていたのですが、なんと彼らはストレートが速いのは当然としても、100Rまでも巧みなステアリング捌きで駆け抜けて、トップタイムを2秒半も上回るタイムをマークしたのです。
 
習走行では100Rでベストラインを走っていた自分をシューマッハ選手が抜いていきました。
その時は自分のアウト側から抜かれたのですが、まず視界にはほぼ真横を向いたような状態のシューマッハ選手のマシンが見えたのです。
「これはコースアウトするな!」と思ったのですが、次に目に入ってきたのは凄まじい速さで操作されるステアリングとフロントタイヤでした。
そしてシューマッハ選手のマシンは何事もなかったかのように100Rを駆け抜けていったのです。
しかもそのエキゾーストノートは全開のままけっして途切れることはなかった。
こんなことを目の当たりして、率直に「スッゲー!」と思いました(笑)。1周につき1秒半くらいの差をつけられるのですが、この1秒半は永遠に届かない差なのだろう、と。
こうして「世界との実力の差」を痛感させられたことやメンタルな面の疲れもあって、自分ではレースを一旦やめるつもりでいたのです。
しかしそんな自分にHKSさんから「前年チャンピオンを獲得したフォーミュラミラージュがあるので乗らないか?」というお誘いをかけていただき、「もう少しやってみるか」と。
すると2シーズン目でチャンピオンを獲得出来て、こうなると単純なものでF3では「世界との実力の差」を見せつけられて意気消沈していたのが俄然元気になって「やっぱりレースって楽しいな!」と(笑)。
して1993年、HKSさんがグループAに参戦することになって、羽根幸浩選手の相棒として私にもステアリングを委ねてくれることになりました。
マシンはR32型の日産スカイラインGT-R、当時人気絶頂のグループAは国内トップドライバーやワークスチームが名を連ねる国内ツーリングカーのトップカテゴリー。そこにプライベーターとして参戦するHKS、タイヤはもちろんADVANを装着していました。
私は横浜ゴムの社員でもありましたが、サーキットではレーシングドライバーとして時にはタイヤに対して厳しいコメントをすることもありました(笑)。しかし、切磋琢磨を重ねてタイヤも凄い速さで進化を遂げ、迎えた1993年第3戦のスポーツランドSUGOで劇的なレースを繰り広げることになるのです。
 
993年5月16日の「全日本ツーリングカー選手権第3戦・SUGOグループA 300kmレース」。
羽根選手と私が走らせる「HKS SLYLINE」は前日の予選でポールを獲得して話題を集めていました。
しかし大方の見方として「プライベーターのHKSがポールを獲得したのは凄い成果だが、決勝では後退するだろう」というものでした。
自分たちはポール獲得のメリットを最大限に活かすために搭載燃料を少なめで羽根選手がスタートして前半にマージンを稼ぎ、私が担当する後半ではマージンを守って逃げきるという作戦に出ました。
しかし羽根選手がスタートして、36周目のピットインでのマージンはたったの3秒。
あとで聞いたのですが、この時カルソニック勢も同じ考えで、前半を影山選手、後半はアンダース・オロフソン選手で後半での逆転を狙った作戦だったようです。
ットインまで全く同じタイミング。すなわち後半40周、3秒差状態からスタートする私とオロフソン選手の一騎討ちです。ちなみにオロフソン選手は1991年のグループAや1990年のグループCでシリーズチャンピオンに輝いた名選手、何とも言えない緊張感が僕を支配していました。
しかし3秒差のまま必死に周回を重ねると、残り10周になっても思ったよりも差を詰めてこないのです。そこで「だったらもうちょっと差をつけてやろう」なんていう色気を出してしまったんですよね(笑)。
ハイポイントコーナーへの進入でブレーキを遅らせたのですが、ブレーキを踏んだ途端にスピンモードになってしまい、なんとかコースへは復帰したものの立場が入れ代わって9秒追う側になってしまいました。
必死にベストラップを連発して追い続け、いよいよ残りは僅か4周に。
この時、突然に前を行くカルソニックスカイラインの後ろ姿がハッキリ大きく見えるようになったのです。
 
ラブル発生か!?と思っていると、馬の背コーナーにタイヤロックさせて白煙をあげながら入って行ったのです。
「これは逆転できる!」と、それまで自分のミスでションボリしていたのが一転、俄然元気になりました(笑)。
追って、追って、追いかけまくって、遂に最終ラップに入った1コーナーでテール・トゥ・ノーズに持ち込みました。
S字コーナーでイン側にノーズを入れたら、さすがに相手も締めてきて軽く接触。
「焦るな、絶対に抜ける」と自分に言い聞かせて走り、先程自分がスピンしたハイポイントコーナーにやってきたのです。
ここでオロフソン選手が挙動を乱し、その隙にインに飛び込んでバックストレートはサイド・バイ・サイド状態で走り、馬の背コーナーのブレーキングで前に出ることに成功。
その瞬間はオーロラビジョンで伝えられていたそうで、観客席は凄いどよめきに包まれたそうです。
終コーナーを先に立ち上がってきた私を見て、ピットも大喜び、というか大騒ぎになりました。
チェッカーを受けて、マシンから降りると色々な人からモミクチャにされましたね。
「感動で泣けましたか?」と良く聞かれますが、全然泣けなかったのです。涙が出る以前に嬉しさのあまり顔が緩んでどうやっても笑ってしまうんですよ。「ヘラヘラ」しているという感じですね。
そして嬉しさを倍増させたのがオロフソン選手がかけてくれた「Good Driving!」という一言。これには感動しましたね。
もう、とにかくチェッカーを受けたあとのウィニングラップから幸せすぎて、あんなに幸せなことって人生の中でそう経験することは無いんだろうな、と思います。
 
勝した翌日はサラリーマンですからちゃんと出社しました。
でも、フォーミュラミラージュでシリーズチャンピオンを獲得した年にあったパーティ出席のために仕立てた「ピンク色のスーツ」を着ていきました。
会社の同僚たちが拍手で迎えてくれ、社内の館内放送でも私の優勝が伝えられました。
花輪も色々なところからきていて、あるプロドライバーさんからは「サラリーマンに負けちゃったな」というメッセージも添えられていましたね(笑)。
 
会社から資金面などで支援を受けていたわけではないので、純粋なサラリーマンとしてここまでの成績を修めたレーシングドライバーというのもいないのではないかと思います。
そして、こうした経験は現在の仕事にもとても役立っています。
私はフォーミュラの経験が長いので、ストイックに速く走ることだけを追求して作られた車をたくさん見てきました。
それは究極の機能美とも言えるもので、モータースポーツから機能美を学び、自分なりの格好良さの基準というものが醸造されてきています。
その基準は自分が作っているアルミホイールのデザインにも当然当てはまっています。
 
YOKOHAMAのアルミホイールは「流行に捕らわれたり流されたりすることなく、YOKOHAMAらしい流れを大切にして」作っています。
言い換えれば「自分自身がモータースポーツで培った経験や知識を基にして、持っている格好よさの基準に対して正直に作り続けている」ということなのです。
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