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牟田周平選手 川名賢選手 Aki HATANO選手 新井選手&奴田原選手
2012年の全日本ラリー選手権が開幕した。
今年は新たな大会も増えて、シリーズは全9戦のカレンダー。北海道から九州までの全国各地を転戦、ターマック(舗装路)とグラベル(非舗装路)それぞれのステージで激しい戦いが繰り広げられていく。

ラリー・シーンを象徴するマシンと言えばRed in BlackのADVANカラーだが、全日本選手権においても強さを見せているADVAN勢では、特に若手ドライバーたちが存在感を高めつつある。

全日本ラリー選手権を戦う若手ドライバーを紹介するシリーズ、まずは第一弾として2011年のJN-3クラス・チャンピオンを獲得した牟田周平選手の素顔に迫ります!
 
2011年11月末、東京都内のホテルで催されたJAF(日本自動車連盟)によるモータースポーツ表彰式。一年間を戦い抜き、好成績をおさめた各カテゴリーの選手が、次々と壇上に招かれスポットライトを浴びていく。
そんな中、名前がコールされると左手を高々と上げて、人指し指で「1」と王座を表すポーズで登壇したのが、プロトン・サトリアネオでJN-3クラスを制した牟田周平選手だった。

牟田選手は1985年9月、福岡県出身の26歳。
2009年に佐賀県吉野ヶ里町で開催された「FMSC吉野ヶ里マウンテンラリー」で全日本選手権にデビュー、同年と2010年はインプレッサでJN-4クラスを戦った後、2011年はJN-3クラスにプロトン・サトリアネオで参戦。過酷なRally Hokkaidoで初優勝を飾り、JN-3クラスのシリーズチャンピオンも獲得した。
そして2012年は再びインプレッサを駆ってJN-4クラスに参戦する。JN-3クラスチャンピオンの称号とともにJN-4クラスへの再挑戦となるシーズンイン、その開幕戦スタート前にお話しをお聞きした。
牟田選手のモータースポーツ歴は高校1年生の時に始まる。大学1年生までの4年間、レーシングカートを走らせていたのだ。

「そのころ、ラリーをやることになるとは全く思っていませんでした(笑)。とは言っても、ラリーを始めるための環境はあったんですけれどね。
ラリーをそもそも始めたのは、父がやっていたので身近にラリー車があったんです。そして、たまたま僕が車の免許を取ってあちこち走り回っていたころに、草レース(レース形式走行会)をやっていた方と知り合ったのですが、この方に『そんなに走るのが好きなら、ラリーをやってみなよ』とアドバイスしていただいて、サポートもしていただきながらラリーを始めました」

典型的な車好きだったという10代のころの牟田選手。地元・福岡を中心に、あちこちを走り回っていたというが、ラリーを始めてみてどんな魅力を感じたのだろうか。

「僕自身がハコ車(ツーリングカー)好きで、さらに山道を走るのが好きだったというのが原点ですね。山道だったら、サーキットと比べて車の差は多少ならなんとか出来るかな、と。
それで実際にラリーに出てみたのですが、ものすごく楽しかったんですよ。正直、大きい声では言えないかもしれませんが、昼間っから林道を誰にも気兼ねなく走れるというのは、普通ならあり得ないじゃないですか(笑)」

ジュニア戦のオープンクラス参戦を経て、2009年の全日本ラリー選手権・最終戦の吉野ヶ里で全日本デビューを果たした牟田選手。この時はインプレッサを駆って総合16位(JN-4クラス12位)という結果を残している。
2009年と2010年の結果表を見ると、牟田選手の車両名称が「アライモータースポーツインプレッサ」と登録されていることに気づくだろう。そう、新井敏弘選手率いるアライモータースポーツの一員としての参戦だったのである。

「たまたま九州で新井さんと接点がある方の紹介をいただいたのが、アライモータースポーツ入りしたきっかけです。新井さんが若手育成のために選手を探しているという話をお聞きして、新井さんから色々と学べる貴重な機会を逃すまい、ということで一員となりました」

2009年の最終戦、デビュー戦の成績は前述の通り総合16位/クラス12位。2010年は全8戦のうち5戦に出場、3戦で完走を果たして最上位は開幕戦・唐津の総合/クラス7位という成績である。
このアライモータースポーツ時代に、牟田選手は新井選手から多くを学んだという。

「新井さんの横に乗せていただいたとき、その走らせ方を間近にしてショックでしたね。僕はダートを走ったことがなかったのですが、WRC(FIA世界ラリー選手権)の映像なんかは見ていました。その映像、そのまんまの走りだったので、正直に『僕も、こういう走りが出来たらなぁ』と思って、新井さんから色々なことを学ばせてもらいました。それは運転の技術だけではなくて、新井さんが持っているハングリーさとか、体力トレーニングの必要さとか、本当に色々なことですね」


2011年、牟田選手はキャロッセに移籍。注目のニューカマーであるプロトン・サトリアネオを駆ってJN-3クラスを戦うこととなった。

「去年(2011年)は、完璧なワークス体制での活動でしたから、プレッシャーも大きなものを感じました。
アライモータースポーツ時代は、新井さんから車についても自分で何でもやりなさいと言われて、物的なサポートを主にしていただいていました。しかし去年は、とにかく車としての成績を残すために走らせていたという感じです。車を壊してはいけない、速く走らなければいけない、というプレッシャーの中で戦っていましたね」

第2戦の久万高原が初参戦となった2011年シリーズ。愛媛、宮崎とクラス5位で完走が続いたが、第4戦の福島ではコースオフからリタイアを喫してしまった。

「福島のリタイアはドライバーの責任でした。自分が悪い、自分のミスだということはしっかり認めて、周りの選手や車が速いんだという事実も認めた上で、それでもやるしかないんだ、と。全部を前向きに考えるようにして戦っていたのが2011年の全日本ラリーでした」

第5戦の岐阜はスキップし、第6戦の北海道・洞爺湖の臨んだ牟田選手。ここでは難しいグラベル路面で、同じくプロトンを駆る明治慎太郎選手と激しくトップを争い、最後はワン・ツー・フィニッシュとなった。ただ、牟田選手は惜しくも準優勝、明治選手がプロトン初優勝を飾ったのである。

「僕はチャンピオンを獲るんだ、ということよりも、プロトンを一勝させるんだ、という思いで走っていました。僕に与えられた使命は、プロトンという車の存在感を高めること。プロトンを目立たせて、一人でも多くの人に存在を知っていただくには優勝するしかありません。だからこそ、初優勝を洞爺湖で明治選手が飾ったときには、本当に悔しかったですね」

洞爺湖のフィニッシュ後、悔しさを表情から隠さなかった牟田選手。
しかしその悔しさは飛躍への大きなバネとなり、続く第7戦のRally Hokkaidoでは、SS(スペシャルステージ)総距離222.89kmというスケールの大きな一戦で激しい生き残り戦となった中、中盤で連続ステージベストをマークするなど快走を披露。総合7位フィニッシュで堂々のJN-3初優勝を、APRC(FIAアジア・パシフィック・ラリー選手権)も併催された大舞台でなし遂げた。
その優勝を飾ったときの思いを、牟田選手は次の一言で表現した。

「Rally Hokkaidoのポディウム(表彰台)に立ったときには、キャロッセさんに恩返しを出来たと思いましたね」
最終戦の愛知は当初予定になかったが、チャンピオン獲得の可能性が高まったため急遽インテグラを駆って参戦。ここでしっかり結果を残し、堂々の2011年JN-3クラス・ドライバーチャンピオンに輝いた牟田周平選手。
2012年は再びスバルインプレッサを駆ってJN-4クラスに参戦することとなり、ベテラン勢を相手にどこまで上位に食い込んでいけるかが注目を集める存在となる。

そんな牟田選手に、これから先のラリードライバー人生における夢を聞いてみた。

「プロフェッショナルとしてやっていければ、ドライバーとして生きて行けることが幸せだと思っています。夢、ですね。
それにはまだまだ経験も足りないとは思いますが、出来るだけ長いスパンでラリーを続けていくための努力をしなければならないと思っています。環境はどうであれ、『今年、JN-4クラスを走ります。でも、来年は出来ません』ではなくて、何年もラリーを続けて行って、いずれ世代が変わっていく時にも残っていられたらいいな、と思っています」

しかし反面では、どこまで自分はラリーを続けて行けるのか、という思いも胸にあると正直に語ってくれた牟田選手。それは、牟田選手に限らず、若い人たちに共通する思いなのかもしれない。

「僕も含めて"若手"と呼ばれる選手は、お金もないし経験も足りません。そんな中で勝負をしようとすると、どうしてもお金は必要になってきます。でも、お金はイコール"人"でもあると思うので、やはり色々なかたちで支えてくれる人たちの存在は大きいですよね。
仮に自分が大金持ちだったとしても、ラリーは一人では絶対に出来ないスポーツです。だから、というわけではないですが、人のつながりというのは本当に大切。
僕は自分自身で言うのも変ですが、人を大切にするタイプだと思います。周りからも「お前は他人のことより、自分のことにもっと集中しろ」と言われることも多かったりします(笑)。僕は、人を大切にしながら、後輩も育てつつ、自分自身もステップアップしていけたらいいな、と思っています」

20代の若手選手が口にした"後輩を育てる"という言葉。そこから見える"20代のクルマ事情"について牟田選手は語る。

「走りたい、っていう子は多いんですよ。そういう後輩たちは、僕がラリーに出るというと、応援に足を運んでくれたりします。
車が好き、走るのが好き、という子は多いんですが、どうしても競技への出場となるとお金の問題がついてまわってしまいます。ただ、本当に走ることが好きな子はたくさんいるので、僕自身がそういう子たちの目標になれる存在でいたいんですよ。
雑誌なんかでは『若者の車離れ』なんて言われたりもしますが、決してそんなことはありません。僕のまわりの20代にも、いっぱいインプレッサなどのユーザーはいますから、そういう若い子がたくさんラリーやレースに出てきたら面白くなりますよね」

自分のステップアップだけではなく、周りの後輩たちの目標になれる存在としても頑張っていきたいと語った牟田選手。その飛躍の先として海外ラリーは視野に入っているのだろうか。

「そうですね、海外にも行ってみたいんですが、やはり国内で奴田原文雄選手などの速い人たちに勝ってからではないと、行ってはいけないのかな、って(笑)。新井さんも奴田原さんも日本一になって海外に行かれていますから、まずはそういう速い人たちに認めてもらってから海外参戦だろう、っていう思いがありますね」



惜しくも開幕戦ではDay2でコースオフを喫してリタイアに終わった牟田選手。マシンのパフォーマンスも高かったが、「まずは徐々に感覚を(JN-4の速さに)戻しながら走ります」と語っていただけに、終盤で勢い余ってしまったための結果だろうか。
牟田選手にとっては悔しい結果となってしまった2012年の開幕戦。しかし、昨年の福島でも悔しい思いをバネにしてチャンピオン獲得に至っただけに、今回も不屈の精神と若さを武器に、これからの巻き返しに期待したい。


次のページでは、川名賢選手とAki Hatano選手をご紹介します!
[UPDATE : 13.Apr.2012]
         
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