日本で最初に「ワンメイクレース」という概念を根づかせたのは、言うまでもなくシビックレースである。
1981年のスタート以前は、排気量の違い、改造範囲によってレースが区分されるだけで、出場される車種に縛りはなかった。
しかしながら、1300cc以下の車両で争われるレースは、事実上のワンメイク状態となっていた。当時はサニーB110の全盛期で、ハコのレースといえばサニーというぐらい、全国のサーキットで、あらゆる形態で用いられていたのだ。
対抗し得る車両としてシビックSB1やスターレットKP47が存在したが、それらはあくまで少数派に過ぎなかった。
1980年代に入ると、そのサニーも生産中止から久しく、いよいよホモロゲーション(公認)切れのカウントダウンが開始。
今はJAFの登録車両であれば、特に明確な期限なくレースで用いることができるが、この頃はそうではなかった。むしろ、経年変化によって、安全性が損なわれていくことに配慮したのだろう。
そのため、さまざまな後継レースが企画され、そのひとつがシビックレースだった。
最初に用いられたのは2代目のSRことスーパーシビックで、初年度は鈴鹿のF2レースと併せての開催に。大観衆を集める場だったこと、また当時、この類のレースとしては破格の賞金(優勝30万円!)が用意されたこともあり、初レースから30台を超える参加が。
最初のウィナーが中野常治選手」(当時はF3ドライバーで、中野信治選手の父)だったことから分かるとおり、プロアマ混在のレースとして、上々の滑り出しを見せることとなった。
翌年からは西日本、東日本シリーズも設けられ、次第にシリーズは全国規模になっていく。
'88年からは鈴鹿で行われるF1日本GPのサポートレースである「F1チャレンジカップ」が、そして'91年からは全国のサーキットを転戦するインターシリーズ(当初の名称は、インターカップ)もスタート。
これら二大タイトルは、シビック使いたちにとって、かけがえのない目標ともなっていく。
モデルチェンジに合わせ、用いられる車種は変わっていったが、イコールコンディションを最大限保つというコンセプトが、ずっと貫かれているのは特徴のひとつだ。
N1規定に準じ、大幅な改造を認めず、可能なのはパーツの交換のみ。
しかも、近年は指定パーツを増やして、不要な競争を防ぐよう配慮されている。そのひとつがECUことコンピュータで、これを最初に指定パーツとしたのが、シビックレースなのである。
なお、エンジンはノーマルにも等しく、オーバーホールのレベルでしか手を加えられない。
'02年からの6年間は、インテグラが後を受け、いったんは幕を閉じたシビックレースの歴史ながら、コンセプトはそのまま。
そして昨年、シビックレースは復活し、現行のFD2によって再び激しいバトルが繰り広げられることとなった。
今年からフロントのダンパーアッパーマウントのブッシュが形状、材質の変更が許されることになった。ピロボールの使用が可能になって、シビック持ち前のフットワークがさらに鍛えられることは請け合い。
また、インターシリーズのチャンピオンに対し、スーパー耐久用のシビックがM-TECより年間貸与されることが決定。
またとない、ステップアップの機会は、ドライバーのみならず、シビックレースに関わるすべての人々の励みにもなるはずだ。
その足下を支えるのは、ADVANレーシングタイヤ。
高い性能と信頼性を両立させ、ユーザーから評価されたタイヤが、レースの盛り上げに一役買っているのは言うまでもない。