第59回 マカオ・グランプリ [ヨコハマタイヤ F3オフィシャルタイヤサプライヤー 30周年] トップページにもどる
YOKOHAMA|59th. MACAU GRANDPRIX 2012  =30th. Official Tyre supplier of MACAU F3=
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“マカオ・グランプリ”の歴史
マカオ・グランプリが産声をあげたのは1954年。記録によると、この第1回には15人のドライバーが参戦したとある。
歴史的背景を省みると、マカオは1887年からポルトガルの植民地とされていた。ゆえに多くのポルトガル人が居住し、貿易の拠点として経済活動も盛んな地であった。また、西洋文化も最新のものが伝わってくる土地であり、富を得た人々の間では自動車を所有する例も少なくなかったのである。
そして、多くのモータースポーツがそうであったように、富を得た者たちが自動車の速さを競い合うようになり、レースが開催されていったのである。

第1回のマカオ・グランプリは3.9マイルのギア・サーキットを舞台に4時間のレースとして開催され、トライアンフTR2を駆るエディ・カルバリョ選手が栄えある勝者としてその名を歴史の1ページに刻んだ。
1956年の第3回では、10のピットガレージと300人収容の特別観客席が設けられ、1958年にはコース延長が現在に通じる3.8マイル(6.115km)とされた。

1960年代に入ると、グランプリは大きな飛躍を遂げる。1960年、この年から大会は国際規模に拡大され、FIA(国際自動車連盟)のスポーツカーとグランドツーリングカー規定を導入、国際モータースポーツカレンダーに組み込まれるようになった。
1962年と1963年の大会は、ドッジー・ローレル選手がロータス22で、初の2年連続ウィナーに輝く。だが、同選手は1967年の大会で、不幸にも初の死亡事故の犠牲者となってしまった。

1960年代の後半から1970年代の前半にかけては、技術力をつけてきた日本の自動車メーカーとドライバーの活躍が目立つようになる。
三菱自動車がコルトと名付けた自社製のフォーミュラカーを1968年から2年続けてマカオに送り込み、1969年のレースでは、これをドライブした加藤爽平選手が3位表彰台を獲得した。さらに1974年にはギア・レースで、セリカを駆る舘信秀選手(現:株式会社トムス代表取締役会長)が初優勝、さらに翌1975年も連勝して「マカオの虎」という異名を取った。

その後、1974年からはフォーミュラ・パシフィックがメインレースとなり、外国人トップドライバーを招聘するなど、グランプリは活性化を見せる。

こうしてフォーミュラレースとツーリングカーレース、さらには2輪のモーターサイクルレースまでが一同に開催され、大いに盛り上がりを見せるマカオ・グランプリは世界的にも認められたアジアを代表するビッグレースのひとつとして、確固たるポジションを確立したのである。
1983年、第30回のマカオ・グランプリは、ひとつのターニングポイントとなった。メインレースのグランプリが国際規定のフォーミュラ3(F3)で行われることとなり、FIA F3ワールド・カップとして認定されたのである。そして、このF3にワンメイクコントロールタイヤを供給するオフィシャルサプライヤーを任ぜられたのがヨコハマタイヤ。以来現在まで30年間にわたって、ヨコハマタイヤはマカオ・グランプリF3を足元から支え続けているのだ。

そして、この“F3元年”に優勝を飾ったドライバーこそが、F1世界選手権で後に3回のワールドチャンピオンに輝く音速の貴公子こと、アイルトン・セナ選手である。同年、イギリスF3で怒濤の9連勝を飾って王座を獲得、マカオも制して名声を高めたセナ選手は、翌1984年からF1ドライバーとしてのキャリアをスタートさせている。

1984年の勝者であるジョン・ニールセン選手は、F1をドライブする機会には恵まれなかったがツーリングカーで活躍を見せ、ル・マン24時間の総合優勝や、1996年の全日本GT選手権・GT500クラスチャンピオンなどを獲得した。
また、1985年のマカオを制したマウリシオ・グージェルミン選手は1988年から、1987年の勝者であるマーティン・ドネリー選手は1989年からF1のシートを手中にしている。

80年代を締めくくる1989年のグランプリで優勝を飾ったのはデビット・ブラバム選手。“ブラバム三兄弟”の末っ子は、同年のイギリスF3チャンピオンに輝くと、マカオ・グランプリでも勝利を獲得。翌年のF1に参戦した後、1996年には前述のニールセン選手とコンビを組んで全日本GT選手権のチャンピオンに輝いている。
1990年代に入ると、マカオ・グランプリは“F3世界一決定戦”という位置づけでの捉えられかたが広まり、同時にF1ドライバーへのステップアップには欠かせない関門としても認知されていった。逆に言えばマカオ・グランプリでの優勝は、希望に満ちた未来が約束される可能性も高く、世界中の若きレーシングドライバー達の大いなる目標となったのである。

1990年のグランプリを制したドライバーは、後に“皇帝”と呼ばれるミハエル・シューマッハ選手。ドイツF3王者の称号を背にマカオへと乗り込んだシューマッハ選手は、イギリスF3王者のミカ・ハッキネン選手を退けて優勝を飾り、さらに翌週に富士スピードウェイで開催されたインターF3リーグも制して、翌年にF1デビューを飾った。

その翌年、1991年のグランプリでは、デビッド・クルサード選手が勝利を手中におさめた。イギリスF3ではランキング2番手に留まったものの、マカオを制したことでその実力を遺憾なくアピール。国際F3000を経て、1994年からF1ドライバーとしての活躍をスタートさせている。

90年代中盤にも、マカオ・グランプリをきっかけにF1へとステップアップするドライバーが輩出された。
1995年に優勝を飾ったのは、ミハエル・シューマッハ選手の実弟であるラルフ・シューマッハ選手。同年のドイツF3ではランキング2位だったラルフ選手だが、マカオ・グランプリでは1990年のミハエル選手に続いて史上初の兄弟優勝を実現。翌年は日本でフォーミュラ・ニッポンや全日本GT選手権に出場、1997年からF1へとステップアップを遂げた。
また、1996年の覇者であるラルフ・ファーマン選手も、マカオでの優勝を経てフォーミュラ・ニッポンや全日本GT選手権に参戦、2003年にF1参戦を果たしている。

さらにF1以外のカテゴリーとしては、現在はマカオ・グランプリにおいてF3と並ぶメインレースとなっているWTCC(FIA世界ツーリングカー選手権)で活躍したドライバーの中にも、マカオ・グランプリの覇者が存在している。
BMWワークスとしてWTCCの初期に活躍したヨルグ・ミュラー選手は1993年、シボレーやセアトを駆って参戦したリカルド・リデル選手は1992年のそれぞれ勝者として、その名を歴史に刻んでいる。
2000年のマカオ・グランプリは、F3となって以来初めてマカオ籍のドライバーが表彰台の真ん中に立った。そのドライバーとはアンドレ・クート選手。1995年に初参戦しているが、悲願の地元優勝を飾って大いなる祝福を受けた。

2001年は、マカオF3の表彰台で初めて「君が代」が演奏された。優勝を飾ったドライバーは佐藤琢磨選手、同年は参戦2シーズン目となるイギリスF3で日本人として初めてチャンピオンを獲得、満を持してのマカオ・グランプリへの挑戦であった。
この成果も認められて、2002年からはF1のステアリングを握ったことは記憶に新しいところ。さらに2010年からはインディカー・シリーズへと活躍の場を移して、国際的なレーシングドライバーとして広く知られるに至っている。

近年では、2009年と2010年に、F3では初めてエドワルド・モルタラ選手が2年連続で優勝を飾った。
モルタラ選手は現在、DTM(ドイツ・ツーリングカー選手権)で活躍を見せており、2007年の覇者であるオリバー・ジャービス選手も同様にマカオ勝利後はDTMで活躍するなど、マカオ優勝ドライバーのステップアップ先もF1のみならず幅広いカテゴリーが対象となってきている。
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