マカオ・グランプリが産声をあげたのは1954年。記録によると、この第1回には15人のドライバーが参戦したとある。
歴史的背景を省みると、マカオは1887年からポルトガルの植民地とされていた。ゆえに多くのポルトガル人が居住し、貿易の拠点として経済活動も盛んな地であった。また、西洋文化も最新のものが伝わってくる土地であり、富を得た人々の間では自動車を所有する例も少なくなかったのである。
そして、多くのモータースポーツがそうであったように、富を得た者たちが自動車の速さを競い合うようになり、レースが開催されていったのである。
第1回のマカオ・グランプリは3.9マイルのギア・サーキットを舞台に4時間のレースとして開催され、トライアンフTR2を駆るエディ・カルバリョ選手が栄えある勝者としてその名を歴史の1ページに刻んだ。
1956年の第3回では、10のピットガレージと300人収容の特別観客席が設けられ、1958年にはコース延長が現在に通じる3.8マイル(6.115km)とされた。
1960年代に入ると、グランプリは大きな飛躍を遂げる。1960年、この年から大会は国際規模に拡大され、FIA(国際自動車連盟)のスポーツカーとグランドツーリングカー規定を導入、国際モータースポーツカレンダーに組み込まれるようになった。
1962年と1963年の大会は、ドッジー・ローレル選手がロータス22で、初の2年連続ウィナーに輝く。だが、同選手は1967年の大会で、不幸にも初の死亡事故の犠牲者となってしまった。
1960年代の後半から1970年代の前半にかけては、技術力をつけてきた日本の自動車メーカーとドライバーの活躍が目立つようになる。
三菱自動車がコルトと名付けた自社製のフォーミュラカーを1968年から2年続けてマカオに送り込み、1969年のレースでは、これをドライブした加藤爽平選手が3位表彰台を獲得した。さらに1974年にはギア・レースで、セリカを駆る舘信秀選手(現:株式会社トムス代表取締役会長)が初優勝、さらに翌1975年も連勝して「マカオの虎」という異名を取った。
その後、1974年からはフォーミュラ・パシフィックがメインレースとなり、外国人トップドライバーを招聘するなど、グランプリは活性化を見せる。
こうしてフォーミュラレースとツーリングカーレース、さらには2輪のモーターサイクルレースまでが一同に開催され、大いに盛り上がりを見せるマカオ・グランプリは世界的にも認められたアジアを代表するビッグレースのひとつとして、確固たるポジションを確立したのである。